ゲーム コラム もっと!ゲームの話がしたい

 

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Semaphoとは

当サイトの管理人。
そしてOPENREC配信者であり、作曲家。
アートワーク、インタビュアーなど
好きなことは何でもやってしまう行動派。
元々、ゲームクリエイターであり、
厳しいゲーム業界で奮闘していた。

ゲームの話というのは非常に人間性が出る。

その人がどんなゲームが好きで、
どんな遊び方をしていたのか?
そして、ゲームへの愛など色々と情報が混ざっているように思う。

僕は、もっとゲームの話がしたい。

 

セマフォエッセイ:もっとゲームの話がしたい①

昔、ファミ通のコーナーで「ゲームの話をしよう」という記事があった。
毎回、コアなゲームマニアやファン。
しかも、それは職業も様々な人たちが集まり、
ファミ通編集者と語らうのだけれど、
僕が覚えているのはスチャダラパーのBOSEさんの回だ。
相手は島袋ラクセルさんだったかな?

とにかくあの記事は最高だった。
大人が本気で様々な角度から楽しんでいるんだ!
ということは散々語りつくすのだけれど、
BOSEさんはそれをまたコミカルに話してくれるのだ。

「1」

 

面白いゲームは共感できる。共有できなかったとしても。

最近では個人でもスマートフォン向けのアプリを作れる。
または子どもたちもアプリを作っていたりする。

そして僕はファミリーコンピューターを幼少期に遊び、
SFCと移行、N64、PS、などとゲームにおける、
技術力と表現力が目覚ましく発展するとともに僕も成長した。

Motherシリーズや聖剣シリーズももちろん、
ファイナルファンタジーシリーズは僕にとって、
全てのゲームへの愛情の基礎になった。
もちろんドラゴンクエストもそうだ。
FF、ドラクエは当時は特にRPGの「基準」になっていたと思う。
FFっぽい、ドラクエみたいに・・・、そんな風に。
今でももしかしたらあるのかも知れない。

基準というのは誰か一人が勝手に決めて、
それが広まったとは思わない。

多くの人々の「共感」がそれらを「基準」へ
押し上げるのだと強く思っている。
これはゲームだけの話じゃない。

野球における一流選手、とは?
イチロー選手だ。

イチロー選手はプレイだけで共感を生まない。
いや、もしかしたらそれら含めて試合に出ているのかも知れないが、
僕は少なくともイチロー選手に多くの人が共感しているのは、
日ごろの準備や思考、そして彼ならではの哲学や捉え方だと思う。

ゲームの話に戻そう。

僕はファイナルファンタジーに強烈な共感を覚えている。
FF6、特に名作であり、子どもながらに恋愛について、
命について、そして言葉にはできない高揚感などあまりに多い。
それらの多くはストーリーやセリフから頂いたものだ。

ここで勘違いして欲しくないのは
僕はFF6の登場人物と感情やセリフを共有は出来ていない。
つまり、実体験と重なるイベントなんてほとんどない。
けれども、共感できるということだ。
どんなに悪者でも言っていることに美学があれば、
なぜか「かっこいいな」「もしかするとすごく筋が通っているのか」
などとついつい深読みしてしまう。
それが共感の始まりだ。

共感とは同じ思考を持っていなくても、
何かシンパシーを感じる特別かつ雑多なものだと思う。
共感は思考を伴う。
思考とは必ずしも脳内で言語として成り立つわけではない。

 

「2」

 

オープンワールドはストーリーと相性が悪いのか?

 

まず、結論から言うと分からない。
というよりも遊び方次第だと思っている。

僕は先述したようにファイナルファンタジーが大好きだ。
OPENRECで編集動画を出している。
なので、FF15を例に出すとする。

FF15はよくストーリーが・・・。
と、少しネガティブな意見を聞くことがある。
これは別にその人が持っている意見なら、
ぼくは大切にするべきだと思う。
だからこそ、僕の意見を言うと、
僕はすごく楽しかった。

本編のストーリーは、
おおよそ王道なものであると思って間違いない。
王子が真の王様になるために、力を求めてワールドを冒険、
ヒロインはどうなるか?仲間との絆は?
様々な悪い出来事を通り越してみんな強くなっていく。
僕の大好きな王道ストーリーだ。
しかし、クリア後晴れやかだったか?と言われると、
僕はちっとも晴れやかじゃなかった。

むしろ、哀しさが残る良いゲームだった。

 

ところで、よく耳にする意見は、
そもそもオープンワールドとストーリーを打ち出したゲームは
相性が悪いんじゃないか?ということ。

分からなくもない。
しかし、ストーリーとの相性については、
僕は二つのことが大事だと思っている。

一つ目は「演出」だ。

もっと言うと、様々な『間』がすごく大事だと思う。
一応、これは元ゲーム制作側の意見と思ってもらって構わない。
ギリギリのところで助けに来るヒーローは、
あっさり登場し、さらさらと会話をしては淡泊なのだ。

悪者のボスが「出てきたな」と言うと、
ヒーローは「待たせたな」とヒロインに優しく言う。
そして、その和かなセリフとは裏腹に、
悪者ボスを圧倒してしまう。

そういうベタなシーンのいたるところに、
セリフとセリフの間、次のカットへの間、
様々な『間』が潜んでおり、
それらはアーティストであるプログラマと、
プランナならびに様々な制作陣の
「個性」が結託するものだ。

つまり、間という演出にそのゲーム会社の趣向が出る。

 

二つ目の大事なことは、

プレイヤー側だ。

 

FFXVを再び例に出すと
僕はオープンワールドをただただ歩き、
車でドライブするだけでも
何か世界に「物語」を感じた。

朽ちた建物、錆びたフェンス、不気味な洞窟。

ここに行ったらどうなる?
日没は近いな。
キャンプして明朝探索しよう。

そういう僕の頭の中で成立するそれぞれの、
冒険心と呼応するファクターがあれば、
物語は成立すると思う。

 

なのでこの冒頭に言ったように、

遊び方次第なのだ。

 

 

セマフォ